経営の視点

アートでゴールを決めたい我が人生(ギャラリー桜の木30周年記念誌へ寄稿)


二十歳前後の時の私には、とても社会の中に自分の居場所があるとは思えなかった。そんな時代の救いは芸術家としての生き方だった。「○○ばか」と言われるような一途な生き方が好きで、「ゴッホは何故絵を描き続けたのか?」が自分の中では大きな問題だった。私の中にある、行き場所のないエネルギーと会話をしてくれるのはゴッホの情熱だったのかもしれない。芸術家になれるとは思わない。だが大学の中で一番多く絵を観た人間にならば成れるだろう。我武者羅に展覧会や画廊を回った。ただ偶然目に入った広告やたまたま出合った画廊を巡った。

そんな折り棟方志功が亡くなり回顧展が開かれた。板画の前に釘付けになった。自分の奥の奥に眠っている自分でも知らない生命力が沸き上がってくるのを感じた。こんな人がいるのか、こんな仕事があるのかと思った。志功の絵の描き方は人間離れして見えた。天からのメッセージが志功を通って紙に描かれている。それ以来、目白にあるアトリエにクロッキーを描きに通った。ただ自分で描いているだけ、誰の批評もなければ師もいない。スケッチブックを手に電車の中で、街で、歩きながらもクロッキーを描いた。

現実の社会に適合出来なかった私の怒りと悲しみは婆娑羅大将が、安らぎは弥勒菩薩が受け止めてくれていた。婆娑羅大将を弥勒菩薩を板画にした。志功のように板に目を近づけ彫刻刀を走らせた。その頃は四畳半のアパートを借り「夢中庵」と表札を出し、ひたすら描いた、彫った。四畳半は木屑だらけで寝袋で寝た。

 

でも私は版画家には成らなかった。

 

一浪して電気通信大学に入学し、1年も経たず退学した。また1年浪人し、横浜国立大学の教育学部哲学科に入学。卒業間近になって美術科に転部したいと相談すると、あと2年追加になると言われた。

教員免許もとれていた。

私は教師の道に進むことにした。5年、5年は何も考えず教師をする。本当に芸術の道に進みたいなら5年後も気持ちは変わらないだろう。

1年目にして私は教師の道にはまっていた。楽しくてしょうがない。それが私の教師生活1年目。ところが、2年目は1年目にかなわず、3年目は2年目にかなわない。50歳に成った頃の私は何をしているだろうと思いを馳せるが、そこに希望は見えなかった。

まだクロッキーは描いていた。恐ろしいことにバレエも習っていた。そこで出会う貧しくも情熱のある彼らに私の人生は負けている。

自分で決めた5年目を過ぎ、6年が経った時、教師を辞めた。

版画家と結婚するつもりでいた妻は「やっとその気になったの」と反対はしなかった。その言葉のありがた味は当時の何倍も今感じている。

色々な仕事をしてみたが、どれも鈍臭い。教師であった自分にできることは子どもを教えることだけだと分かった。小さな、生徒4人の塾を始めた。遊びと勉強を教える塾だ。幸いなことに電話がなる度に生徒が増えた。公団の自宅で始めた塾は実家の部屋からテナントへとヤドカリのように変わっていった。

教師を辞めて30年以上経った今、小さな塾は小学校にまで育った。

何年か前、柳画廊さんに出会い、広田稔さんのバレリーナを描いたクロッキーを買った。昔の自分の気持ちを忘れないようにという気持ちがあったのだと思う。自分の原点を忘れないように飾り、毎日観ている。1枚本物の絵があると同じ部屋に印刷物は飾れなくなった。2枚目は画廊をしている友だちからシャガールを買った。ギャラリー桜の木さんに出会ったのはその後だ。好きな絵には出会えても、買いたい、自分の家に飾りたいと思える絵にはなかなか出会えないでいた。桜の木さんは私の求めるものが全てあるような不思議な場所だ。作家と話したいという私の長年の思いも叶い、行く度に欲しい作品があって困る。

芸術家にならなかった私がこれからできることは、芸術と芸術家のために何かをすることだと思っている。私は今、作品を作るように学校を作り、会社を作っている。私にはこの道が合っていた。天職だと思う。私のこの天職を生かして何ができるのか。毎日語り、思いを巡らせている。

学校に本物の絵や彫刻を飾る。当たり前のように飾る。美術館よりももっと当たり前に飾る。ある時は子どもが絵に語りかける、絵は毎日子ども達を見守っている。

芸術家がもっと生きやすい世をつくろう。誰よりも情熱をかけ生きている彼らがリスペクトされる世の中を。芸術家が生きていける方法を学べる学校もつくろう。

今ビジネスの世界にいる私を生かして何かができる。残された人生はきっとそうしよう。


3月 10th, 2015|

「引き寄せの仕組み」2


「人生が好転する『引き寄せ』のしくみ」水谷友紀子著 を読んで

 

人生ではその人が本当に思っていることが実現するというのが「引き寄せの法則」。

ただ、人間の頭には1日に6万もの「思い」や「考え」を発信していると言われている。意識して「思っている」こと以外に無意識で思っていることがたくさんあるのだ。

だから、潜在意識からの「思い」でなければ、引き寄せたい思いは引き寄せられない。

「『頭』と心が戦う時、勝つのは『心』の方だ」という著者の言葉が印象的だった。

 

潜在意識は「良い」「悪い」の判断が一切つかない、潜在意識は否定形を認識しないと著者は言う。付け加えれば、潜在意識は主語をも認識しない。

良い・悪いに関係なく頻繁に思うことが潜在意識に届いてしまう。「花粉症になりたくない」と思っていると「花粉症」という言葉が潜在意識に届くし、「あの人は意地悪だ」と思っていると「意地悪」というメッセージが潜在意識に届き、潜在意識はそれを実現しようとする。

 

私たちが「幸せ」を願う時、それを阻害するものがある。それは、今までに刷り込まれた価値観だ。たとえば「幸せのあとには不幸がくる」「幸せは長くは続かない」など。「幸せ」の真っただ中で、幸せを享受すること、享受できることが大切なのだ。

 

正に。楽しめば「楽」あり、苦しく思えば「苦」ありだと思った。


1月 20th, 2014|

帝国データバンクニュースに掲載されました


改革の旗手たち

株式会社エル・シー・エー(201324484)

代表取締役 山口紀生

 

「学生時代にあれだけ英語を勉強したのに…」と海外旅行等で痛感することはないだろうか?寝る間も惜しんで覚えた英単語や文法は完全に消え失せ、気が付けば日本語で「これください」と言ってみたり。

 

英語に限らず外国語は日常的に使わないと「錆びて」しまう。この点にこだわり、「英語イマージョン教育~immersion:浸す」を教育理念の柱に据え、株式会社が運営する小学校として全国初のケースとなる「LCA国際小学校」は神奈川県相模原市にある。

 

校長の山口紀生はLCA国際小学校を立ち上げる前に公立小学校で教鞭を執っていた時期がある。しかしながら、彼が教員になるまでの過程は、教師を志す学生が辿る一般的なルートとは大きくかけ離れていた。

 

山口は小学3年生の時に気象観測士を夢見ていたという。それは猛烈な嵐のなか、たった一人で百葉箱を守る主人公の姿に感動したからであり、山口はその後6年間に亘り、短波放送を聞きながら自己流天気図を毎日欠かさず書き続けた。さらに、好奇心旺盛な山口はアマチュア無線にも興味を示し、おぼろげながらも将来の夢として「気象」に携わる、または「エンジニア」になるという夢を抱いた。

 

自らの夢を叶えるべく、一浪してまで入ったのは電気通信大学。しかしながら、熱意と希望に満ちあふれる山口を待っていたのは予想外の日々であった。勉学では真面目、生真面目に機械相手の実験ばかりという環境に辟易とし、キャンパスライフでは「新人一人の柔道部」に嫌気が差し、バラ色だったはずの大学生活は間もなくグレーに染め上げられていった。

 

山口の行動は早い。大学1年生となったその年末に退学届けを提出したのである。しかしながら、山口の周囲は納得しない。一浪してまで入った大学を、1年もたたずに辞めた理由を山口は探さねばならず、フッと頭に浮かんだ言葉…「教師になるために辞めたんだ」と周囲に言い放った。

 

そこから1年間、山口は通信教育等で受験勉強に勤しみ、晴れて横浜国立大学教育学部社会科に合格した。しかしながら、山口の学生時代は教師目指してまっしぐら…という訳にはいかず、様々な事物に興味と関心を示し、卒業間近になってもなお、自らの将来像を描ききれないでいた。そのような状況下で山口は神奈川県の教員採用試験に合格、「とりあえず教師になっておこう」と道を定めたのである。ただし、「まずは5年間」と。

 

「まずは5年間」と時間を区切って2年生の担任となった山口であったが、教師という職業にのめり込むのも早く、毎日が楽しくて仕方なかったという…しかしながら、巷では閉鎖的とも揶揄される教員の世界で、既成の枠にとらわれずチャレンジ精神と若さで突き進む山口が周囲から浮き上がるのは時間の問題であった。しかも、連日の会議や研修で子供達と向き合う時間も制限され、徐々に山口のモチベーションは下がる…そして「まずは5年間」を通り過ぎ、教員生活6年目の山口は理想と現実の間でもがき苦しみ、給料や名誉ではなく自ら信じる道に突き進む人々の姿に美しさを見出し、「もう一度生き直そう」と退職願を出したのである。

 

そして失業時代。失意のなかで主婦(主夫)生活を送っていた山口に、小学生をもつ近所の母親達から「勉強を少し見てもらえないかしら」と声がかかった。山口はこの申し出を受けることに決め、さらに一つのお願いを母親達にしたのである。

 

「学校ではやりたくてもできなかったことをやらせて欲しい」

 

4人の小学3年生でスタートした私塾「LCAチャレンジクラブ」は、勉強と並行してキャンプや映画鑑賞など山口が自ら経験してきた魅力的なカリキュラムが満載で、山口と子供達の間に信頼関係が生まれると改めて勉強もはかどるようになり、学力向上にも目覚ましいものがあったという。

 

自らの教育方針に賛同してくれる父母・父兄に囲まれ、ぐんぐん成長する生徒を目の前に山口はかつてない「やりがい」を感じた。一方、山口自身がホームステイ受入れを行っていた経緯もあり、異文化コミュニケーションもカリキュラムに採り入れたいと考え、米国アイダホ州で16日間の短期ホームステイも決行した。

 

ホームステイ期間中は生徒達の目が輝き、文字通り朝から晩まで大自然を満喫、その姿に山口は喜びを感じ、自らの教育方針に自信を深めたが、そんな山口にも一つだけ気になる点があった。それは生徒達の「英語力」である。

 

ホームステイ前、自らの意思を表現できるよう最低限の英語を教え、ホームステイ期間中も生徒達は身振り手振りを交えて軽々と言葉の壁を乗り越えていたが、それでもなお満足に英語を操れるといったレベルには程遠いものであった。

 

ホームステイから帰国し、山口は実践的な英会話スクール探しに奔走したものの、満足のできる英会話スクールは見つけ出せなかった。そこで山口は英語を自由自在に操ることができるようになる…そんなレベルの英会話スクール立ち上げを決意したのである。

 

当時、「LCAチャレンジクラブ」は進学塾部、英会話部、幼児教育部、アウトドア部の4部門を擁するまでとなっていた。山口は英語を重視した教育や活動を実践すべく試行錯誤を繰り返していたが、それでも生徒達が英語を使う機会は限定的で、教室を離れれば英語はほとんど使われず、「自由自在に操る」レベルには程遠かった。

 

そこで山口は英語をもっと日常的に使えないかと考え、勉強・学習そのものを英語で行うことを思いつき、試験的に毎週土曜日は「英語で教科を教える日」と定めた。その効果は如実に現れ、教育・学習部分を含めて平日は日常的に英語を使うという現在のスタイル、「英語イマージョン教育」が、その産声をあげたのである。そして平成12年、英会話部と幼児教育部を統合、改めてプリスクール(幼稚園・保育園の意)を開校した。

 

プリスクールで園児達は無意識に英語漬けの日々を送り、それこそ日常的に使いこなすレベルにまで到達する。そんな姿に山口は眼を細めつつも、一方で気になる話を耳にする…「公立小学校に進学したプリスクール卒園児が、他の児童と違うという点に違和感を抱き、時に自信を無くしている」と。山口には思い当たる節があった。公立小学校での教員時代、「周囲との調和が第一」と同僚達から言われていた情景が思い出される…

 

「子供達のために小学校を作ろう!」と山口が決意するのに多くの時間は要らなかったが、小学校建設など容易い夢ではない。しかしながら、理想の教育を実現すべく突き進む山口の姿を見ていたのは、プリスクール関係者だけではなかった。

 

平成17年、山口はプリスクールの父兄や関係者はもちろん、近隣住民や企業等の協力を得ながら「LCAインターナショナルスクール小学部」立ち上げに漕ぎ着けた。

 

ここまでの歴史を振り返ると、山口の歩んできた道程は独特のものであったが、これ以降はさらに劇的な展開が待ち受けている。

 

正規の小学校を設立するには校庭の広さや校舎の延べ床面積、天井高をはじめ、様々な法的制約をクリアする必要があるが、山口には時間も資金も全く足りなかった。また、いくら教育内容で正規の小学校を凌駕しても、そのままでは単なるフリースクールであり、学校教育法の枠から外れてしまうために義務教育卒業資格も得られないのである。

 

そこで山口が捻り出したのが「株式会社」による正規の小学校運営であった。しかも山口にとって追い風だったのは、小泉純一郎内閣が「構造改革特別区域計画(特区制度)」を打ち出していたことである。山口は相模原市の協力を得つつ、その認定を受けた(第13回認定分、平成19年3月末)ことで、当社の運営する小学校が法的に認められることになり、晴れて「LCA国際小学校」が誕生したのである。

 

「LCA国際小学校」では国語(日本語)以外の授業を全て英語で行い、外国人教師をクラス担任に配置するなど先進的な取り組みを推し進めた。さらに最近では「不可能を可能にする教育」という方針のもと、①1クラスの定員~18名まで、②進学塾に通わずとも中学受験可能なカリキュラム・体制の構築、③小学校卒業までに英検2級合格、④外国人教師による日本の教員免許取得といったテーマに取り組んでいる。

 

そして今、プリスクール、小学校低学年、小学校高学年と3箇所に分散している拠点を1箇所に集約すべく活動しており、具体的なメドも立ったところである。

 

自らの教育方針を信じ、試行錯誤を繰り返しつつも「子供たち最優先」の姿勢で突き進んできた山口が拠点の集約を実現する。これをみて筆者は、山口の描く夢はその大半が叶ったものと思っていた。ところが…

 

「拠点が集約できたら、つぎは英語教育の中心的な役割を演じたいですね。既にオリジナル教材も開発していますし。プリスクール~小学校と9年に及ぶ一貫教育も『コミュニケーション』の観点でもっと磨き上げたいですね。あ、そうそう学校法人化も考えていますよ。国からのサポートも得られますし、何より親御さんが安心するでしょ。それから、絵画や音楽、ダンス、バレエなど本物の芸術に対するサポートを行って行きたいな。プリスクールや小学校は他の先生に任せても大丈夫なレベルになってきたし、どちらかと言えば芸術学校の立ち上げに取り組みたい…」

 

「えっ!?まだそんなにたくさんの夢を抱えているのですか??山口社長!!」

 

世界を舞台に活躍できる人間の育成を目指す株式会社エル・シー・エー。

目指す山頂はすぐそこまで迫っているように見えるが、山口の夢はまだまだ尽きない。

(聞き手:厚木支店調査課課長  鎌田 守康)


4月 10th, 2013|

バランス感覚が大切


バランス感覚を大切にしているサッカーの本田選手は両腕に時計をしているそうだ。生き方もバランス感覚が大切だ。やりたいことを探してすることが良いこと と教わって育ってきた若者たちが、やりたいことで仕事が見つけられず立ち止まっている。人はやりたいことだけをやり続けると、その道はどんどん狭くなりや がて通れなくなる。道を広げるのは出合ったこと、頼まれたことを全力でやりぬくことである。思いもしなかったことに出合い、知らなかったことを知り、自分 の能力も発見することになる。筋力もないのに重く大きな腕時計を片手につけていては、思うように動けないのは当然にも思える。


4月 11th, 2011|